イラク自爆テロ最大規模

2006年1月5日、イラク自爆テロ 100人以上が死亡
今回の自爆テロ被害は過去2年間で最悪
 
小泉首相は、イスラエルパレスチナへの訪問を中止し、1月9日〜13日、トルコに行く。
日本の総理大臣がイスラエルパレスチナを訪れたのは、1995年9月以来。
 
2006年1月6日、イスラエルシャロン首相、三たび手術、3回目の手術&入院です。

シーア派聖地カルバラなどで自爆テロ、イラン人ら100人以上が死亡
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1608594/detail



自爆テロ相次ぎ百人超死亡 イラク中部ラマディなど
 【カイロ5日共同】ロイター通信によると、イラク中部のカルバラとラマディで5日、自爆テロがあり、カルバラで50人、ラマディで60人以上がそれぞれ死亡、計100人以上が負傷した。バグダッドでも、自動車を使った自爆テロが相次ぎ、市民ら2人が死亡した。
 死者数は昨年12月の連邦議会選後の攻撃・テロとしては最多。政治日程の進行が治安改善に結び付かないイラクの現状をあらためて見せつけた。
 カルバラはイスラムシーア派の聖地で、これまでもシーア派を敵視するスンニ派武装勢力によるとみられる大規模テロが度々発生。議会選の確定結果は出ていないが、現在までのところシーア派宗教勢力が優勢で、選挙結果や選挙そのものに反発する武装勢力のテロとみられる。
 カルバラでは、自爆犯がイマームフセイン廟付近の人込みの中で体に巻き付けた爆弾を爆発させた。
共同通信) - 1月5日23時27分

インドネシア・豪州訪問を中止=シャロン首相の容体懸念−米国務長官
 【ワシントン6日時事】米国務省当局者は6日、ライス国務長官が7日から12日まで予定されていたインドネシアとオーストラリア訪問を中止したことを明らかにした。シャロンイスラエル首相の容体を見守るため、中止したとみられる。 
時事通信) - 1月7日3時0分




イスラエル訪問は中止 首相、9日からトルコへ
 政府は5日午後、イスラエルシャロン首相の緊急入院を受け、小泉純一郎首相が7日から予定していたイスラエルパレスチナ訪問の中止を正式に決めた。トルコは予定通り訪問するが、9日に出発し、13日帰国の日程となる。
 小泉首相は5日夜、首相官邸で記者団に対し「(シャロン首相と)私との会談は現在の状況では無理だ。イスラエルの事情を尊重した」と述べた。シャロン首相の深刻な病状が中東和平に与える影響については「それも心配している。中東和平は全世界に影響する。日本として何ができるか考えたい」と指摘した。
 小泉首相は当初、7日から13日までの日程で、イスラエルパレスチナ、トルコ訪問を計画。シャロン首相、パレスチナ自治政府アッバス議長とそれぞれ会談し、パレスチナ新和平案(ロードマップ)に沿った和平推進を双方に働き掛ける意向だった。しかし、中東和平に積極的に関与する姿勢をアピールする思惑は頓挫した格好だ。
共同通信) - 1月5日19時39分

遅らせれば遅らせる程、中東訪問の意義が薄らぐ。形式だけの見舞いでも良いのでは?
ほんとうに小泉首相シャロン氏と会談するつもりだったらしい。
 
小泉純一郎、2006年9月末まで自民党総裁任期・首相交代
イスラエル 2006年3月28日、イスラエル国会解散・総選挙
パレスチナ 2006年1月25日、パレスチナ評議会選挙
 
シャロンアッバスも小泉も次期は首長ではないだろう と 安易に想像できる。
っで、中東情勢は不安定になるだろう。

再手術、出血止める シャロン首相、依然重体
 【エルサレム6日共同】脳出血で重体となっているイスラエルシャロン首相(77)は6日、検査で新たな脳出血が見つかったため、入院先のエルサレムの病院で約5時間の再手術を受けた。病院幹部は終了後、出血は止まったが容体は依然深刻だと述べた。オルメルト首相代行が6日、ペレス元首相と会談するなど、シャロン後継をめぐる協議が加速し始めた。
 中東和平の行方を左右する首相の容体をめぐって緊迫した状況が続いており、国際社会が事態の推移を見守っている。
 病院幹部は、6日朝行われたCTスキャンによる頭部の検査で「脳圧が上昇し、血圧にも変化があった」ため、首相を再び手術室に運んだと説明。手術後の会見で、再検査の結果、昨日より容体が改善したと述べた。
共同通信) - 1月7日1時13分



戦士で政治家 シャロン首相の重体続く

2006.01.06、Web posted at: 19:09 JST、- CNN

(CNN) 脳卒中で倒れたイスラエルシャロン首相(77)は6日、重体が続いている。専門家の多くは、脳に損傷が生じた恐れが強いとして、シャロン首相が3月末に予定される総選挙でみたび首相となるのは難しいとの見方だ。
シャロン氏はイスラエル建国を青年として体験し、パレスチナアラブ諸国との度重なる戦争を激烈な指揮官として戦った。政界転身後は、パレスチナアラブ諸国に対して最も強硬な姿勢を取るタカ派中のタカ派として、内外に物議を呼んだ。シャロン氏は、イスラエル国家の安全と権利拡張を終生の目標として掲げ、イスラエルに不利な和平条件には強行に反対したが、自ら首相となっては、イスラエルに極力有利な和平実現を追求。パレスチナ国家樹立の公式容認や自治区ガザから撤退などを、右派の反対を押し切って実行できたのは、リベラルではなくタカ派としての風評と支持基盤を強固にもつシャロン氏だからこそだと言われている。
シャロン氏はさらに、ガザ撤退への批判が高まった古巣リクードを自ら離党。右派リクードも左派・労働党も支持できない多くのイスラエル国民の欲求を敏感に察知し、中道保守の新党カディマ(前進)を結党。ノーベル平和賞受賞者として国際的に高名な元労働党シモン・ペレス元首相の支持をも取りつけた。これに伴い3月末に予定された総選挙では、カディマが第一党となり、第3次シャロン内閣の組閣が予想されていた。
政治家としてのシャロン氏の今後が極めて不透明になった現状で、選挙の行方も予測不可能になったが、複数のイスラエル紙による緊急世論調査によると、カディマの支持率は必ずしも低下していない。シャロン氏入院に伴い首相代行となったオルメルト副首相がカディマを率るのか、あるいは国民的な人気の高いペレス氏が率いるのかは未知数だが、ネタニヤフ元首相率いるリクード、そして党首選でペレス氏を破った強硬左派ペレツ氏が率いる労働党と、激しい三つ巴戦になるのは確実だ。
こうした騒ぎの渦中で昏睡状態にあるアリエル・シャロン氏は1928年2月、英国の委任統治パレスチナに生まれた。1942年に14歳でガドナ青年防衛隊に、さらに48年まで地下組織のハガナ防衛隊に所属。イスラエル建国に伴いハガナ防衛隊がイスラエル防衛軍となると共に、シャロン氏も指揮官として頭角を現わす。情報将校となりエルサレムヘブライ大学で学んだ後、イスラエル軍初の特殊部隊となる第101部隊を指揮。パレスチナ人地区や周辺アラブ諸国でのアラブ軍掃討作戦で有名になる。なかでも、1953年にパレスチナの民間人数十人が犠牲になった西岸キビヤ村の虐殺などで、シャロン氏はこの頃から早くもパレスチナ人やアラブ諸国から「人殺し」のらく印を押されることになる。
テルアビブ大学で法律の学位を修めたシャロン氏は、イスラエル軍で昇進を重ね、67年の第3次中東戦争(6日間戦争)では少将としてシナイ半島前線を指揮し、エジプト軍に勝利。エジプトとシリアがイスラエルに先制攻撃した73年10月の第4次中東戦争ヨム・キプール戦争)では、スエズ運河奇襲作戦を指揮してエジプト領内に侵入し、シナイ半島における勝利を確保。多くのイスラエル人から英雄視されるに至った。
第4次中東戦争が始まる2カ月前に、政党リクード結成に参加していたシャロン氏は、軍退役後、ラビン首相の治安担当顧問などを務め、政治家としても頭角を表わす。またこの時期から、ガザ地区ヨルダン川西岸での入植活動を強力に後押しするようになる。73年には国会議員に初当選。81年にはベギン内閣に初入閣し、国防相となる。82年には、レバノン侵攻とベイルート占領を果たし、当時ベイルートを本拠地としていたパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長を追放する。
しかしこのレバノン戦争において、イスラエルと同盟していたキリスト教レバノン人部隊が、サブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプで難民数千人を虐殺。これをシャロン氏が「傍観」したと内外から非難された末、ベギン首相に罷免される。しかしその後も、歴代リクード内閣で産業貿易相、住宅建設相、国土基盤相、外相などを歴任し、イスラエルの入植活動を推進した。
2000年7月に米キャンプデービッドで開かれたバラク首相(労働党)とアラファトパレスチナ自治政府議長の和平会談がエルサレム帰属などをめぐり破綻した後、シャロン氏は9月に東エルサレムにある「ハラム・アル・シャリーフ/神殿の丘」を強行訪問。ここはユダヤ教の聖地であると同時にイスラム教徒にとっての聖地でもあるため、パレスチナ人が強く反発。第2次インティファーダイスラエル占領への抵抗運動)が始まった。
第2次インティファーダイスラエルパレスチナ双方の犠牲が増えるに伴い、労働党とは対照的に対パレスチナ強行姿勢を掲げるシャロン氏率いるリクードが国民の支持を集める。シャロン氏は01年2月の公選で首相の座を獲得し、3月に就任。03年2月には2期目続投を決める。
シャロン内閣がパレスチナ自治政府との交渉を拒否し、強行姿勢を貫いたのに伴い、パレスチナ武装組織の爆弾テロも激化。暴力の連鎖停止を求める国際世論が高まる中、欧米ロと国連がまとめた中東和平実現のロードマップ(03年4月発表)をシャロン内閣は受け入れた。これによってシャロン氏はイスラエル入植地の撤退を受け入れると共に、イスラエル首相として独立パレスチナ国家の樹立を容認した。
シャロン首相はロードマップ履行を約束しつつ、それとは別に、ヨルダン川西岸の入植地とパレスチナ自治区を分断する「隔離壁」の建設を強行。パレスチナや穏健派から批判される。
しかしその一方で05年夏には、リクード保守派の強い抵抗に遭いながらも、パレスチナ自治区ガザの入植地とイスラエル軍撤退を強行。中東和平を促進する動きとして欧米やイスラエルの多数世論から支持されるが、リクードの右派実力者ネタニヤフ元首相は閣僚を抗議辞任。9月末の党首選にシャロン氏は僅差で勝つが、11月21日にはリクード離党と中道新党カディマ結成を電撃発表。議会は解散し、総選挙が3月末に予定された。
こうした中、シャロン氏は12月18日に軽い脳梗塞で倒れ、2日入院。首相の健康情態が政局の焦点として浮上する一方、シャロン氏が健康のための減量に成功しつつあると医師団が発表した直後の、今回の事態となった。

アフガニスタンで自爆攻撃、米兵ら3人が負傷
2006年 01月 2日 月曜日 19:22 JST17

 [カンダハルアフガニスタン)2日 ロイター] アフガニスタン当局によると、同国南部のカンダハル中心部で2日、爆弾を積んだ車が外国人部隊に突っ込み、米兵1人とアフガニスタンの女性、子どもの合計3人が負傷した。
 カンダハル州知事がロイターに語ったところ、自爆攻撃犯とみられる人物は爆発で死亡した。
 米軍のスポークスマンによると、負傷した米兵は軽傷で治療を受けている。
 現地の住民は、外国人部隊にはカナダ兵もいたと語った。
 カンダハルではここ数カ月、自爆を含むタリバン勢力による攻撃が激化している。
 2005年のアフガニスタンで死亡した米兵の数は50人を超え、2001年のタリバン政権崩壊以来で最悪となった。
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スピルバーグ監督の「ミュンヘン」めぐり論議噴出 NYのユダヤ人社会で
ライブドア・ニュース - 7時間前
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1611181/detail
ミュンヘン事件首謀のパレスチナ人、スピルバーグ監督映画を批判
ロイター - 2005年12月28日
http://today.reuters.co.jp/news/newsArticle.aspx?type=entertainmentNews&storyID=2005-12-28T170001Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-198226-1.xml
ミュンヘン」、イスラエル総領事から非難
エイガドットコム - 2005年12月20日
http://www.eiga.com/buzz/051220/07.shtml
映画「ミュンヘン」の宣伝担当にイスラエル首相の参謀
ロイター - 2005年12月18日
http://today.reuters.co.jp/news/newsArticle.aspx?type=entertainmentNews&storyID=2005-12-19T154010Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-197435-1.xml
スピルバーグ新作 早くもオスカー本命
スポーツニッポン - 2005年12月5日
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2005/12/06/02.html

僕はオスカーは無理だと思います。
 
映画「ミュンヘン」オフィシャルサイト(英語)
http://www.munichmovie.com/
日本は来年2月公開予定