以下、引用
2006年7月18日
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■[Web][雑記]自分との関係、鳥瞰という視点の可能性への意識夏のひこうき雲 - 私にはほぼ無関係だが、それにもかかわらずに、K.N.T. - スーダン・ダルフール危機からトラックバックを頂いていた。 私の記事への言及はほぼなく、最初意図が理解できなかったのだが、延々とダルフール関連のニュースを引用したりリンクを貼ったりした後、何の説明もなく夏のひこうき雲 - 私にはほぼ無関係だが、それにもかかわらずへのリンクが記してあったので、記事中の アフリカ危機は『私には関係ない.無関係』ですって???!!! という部分が私の記事への批判だと一応理解した上で、応答の記事を書こうと思う。 そもそもknt68さんは私の記事の主張をまったく正反対のものとして把握されているようだ。 この私の記事で少しでも読者がダルフールの事態に関心を持ってくだされば、私としてはうれしく思います。関心を持ったあとどうなさるかは私が決めることではありませんし、そもそもこうすればいいという答えを持っていません。黙って心に留めておくのも、その人の置かれた状況によっては、最も適切な対処かもしれません。と書いたとおりだ。 ダルフール危機への対処の必要性を訴える人に対して私はまず好意を抱く。だが、そのような基本的な部分で誤読をされるというのは、あまりにも「関係あり→行動する」「関係ない→行動しない」という考え方にとらわれてしまっているからではないだろうかと思う。内容的に結果として表現がきつくなってしまうので応答しないでおくことも考えたが、その方が失礼にあたるだろうし、わざわざトラックバックをくださっていることからも、私のものの見方を書いて改めてお伝えしておこうと考えた。 なぜ私が「ほぼ無関係だが、それにもかかわらず」というタイトルを掲げそのような筋道によったかというと、〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えないような思考様式〉の人に対しては、ダルフールの事態のことをいくら伝えても意味があまりないからだ。なぜなら、いくら窮状や悲惨さを知ったところで、その人にとって「自分」との関係は薄いから。 遠いアフリカで起こっていることなど私たちの日常生活とは関係がない。あと何万人が殺されても、あるいは助かっても、私の生活にはほとんど無関係なことだ。そんなひどいことを自分がしたことはないし、自分がこの先同じようなひどい目に遭うこともたぶんないだろう。と思う人が多いだろう。私も思う。日本を含めた国際社会がルワンダを見捨て、ダルフールを見捨てているのはまさにそれが理由だ。だからといって無理に卑近な例に引き寄せて考えることは、今回の一連の論争のように、無用な摩擦と大量の誤解を招く。 しかし少なくとも「国営ナンタラ通信」のknt68さんには伝わらなかったようだ。そこで改めて、〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えない思考様式〉の問題点を書きたいと思う。 〈対象と自分との関係がどのようなものであるか〉を行動基準とすることを、「自己中心」という。 中国が石油権益の確保のためにスーダン政府に武器を供与しているということについては、現時点では事態が変わっているかもしれないし、ソースを挙げるのが面倒だが、事実だとすれば上のような理屈が成り立つ。 日本は食物自給率が約40%なので毎日あなたはアフリカ産の食物を食べてるかもしれません っていうか食べてるし、工業製品でも中国製工業製品でも原材料がアフリカ産だったりします。K.N.T. - スーダン・ダルフール危機 そのようなロジックを経由する限り、「いいえ、私はアフリカ産の食物を食べていない」「私はアフリカ産の原材料を用いた工業製品を使っていない」という確信を持っている人に対してはまったく通用しない。そもそも全く無関係ということはあり得ない(そのことは「ほぼ」無関係、というタイトルで最初から示している)から、関係の濃淡を基準とする限り、やはりアフリカ人は一番無視されることになる。 私は被害に遭っているダルフール住民やチャド人とも、加害者とも、ほぼ無関係です。せいぜい同時代に生きている人間同士という程度の関係しかありません。人間の命の重要さが、自分の食物や利用する工業製品にかかっているという考え方をするなら、石油権益がかかっている中国が武器供与をしてジェノサイドを促進したことをなんら非難できなくなる。 〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えないような思考様式〉をとる限り、自分と対象が一切無関係ということは通常ないから、〈関係が薄いか濃いか〉あるいは〈「どのような」関係か〉ということが基準になってしまう。自分を中心に置き、自分との距離や、自分との関係が友好的か敵対的かといったことで色分けするという発想に対しては警戒すべきだと思う。 普遍性とはたとえば、どんな三角形であっても内角の和は180度であるということです。もちろん非ユークリッド空間においては成り立ちませんが、私たちはユークリッド空間に生きています……とここでユークリッド空間という喩えで表現しているのは「人間は誰であっても、その命や身体には高い価値がある」という最低限の価値観が共有されている現代の世界のことです。その価値が侵害されたときには、侵害の態様と規模と性質に応じて、他のプレイヤーが介入しなければなりません。(国家や国際連合は何よりもまずそのための装置です。不十分なのでNGOもあります。)わかりやすいように今回部分的に強調した。 少なくとも、自分と対象の関係を固定されたものとしてみるような宿命論的な発想はとるべきではない。関係というのは固定されたものではなく、自分と相手が、互いの不断の選択によって決めていくものだからだ(他の要素もあるが散漫になるのでここでは書かない)。 私の記事へのトラックバック記事中、たくさんのリンクが紹介されていた。以前自分で読んだことがあるものもあるし、読んでいないものもある。いずれの引用も、K.N.T. - スーダン・ダルフール危機での紹介のしかたから判断する限り、私に対する批判としてはまったく的外れだと思う。たとえば一番最後に紹介されていたものについて。 ★葡萄畑で月を頼りに傍観者の沈黙こそが犠牲者を苦しめるということは、昔から知っている。かといって沈黙しているように見える人を断罪したくはないが、私自身はずっとこの「夏のひこうき雲」や「浮雲」でずっとダルフール危機について言及している。 やや話が逸れるが、付け加えるなら、なぜ傍観者の沈黙が犠牲者を苦しめるか。それは、(1)通用すべき価値観が確保されないことに対する不条理感と、(2)(自分がこのような犠牲になっている事態を他の人は肯んじるのか)という無力感・無価値感だ。ここで通用すべき価値観というのは、私の言い方をすれば「普遍的な価値観」だ。 ほか、 で十分すぎるほど書いた。 |